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◆骨董コラム◆春日山窯~京の風を受け継ぐ~②

青木木米

青木木米の生涯と作陶の道


青木木米は1767年、京都の茶屋「木屋」に生まれました。幼い頃から多くの文化人に囲まれて育ち、11歳の頃には儒学者の高芙蓉から書画や古美術の鑑定、印章を彫る技術を学びます。もともと器用だった木米は、古美術品の模倣を得意としていました。

29歳になった1795年、父と姉を立て続けに亡くしたことをきっかけに、木米は煎茶に深く関心を寄せるようになります。そして、煎茶器の美しさに心動かされ、作陶の道を志すようになりました。

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青木木米 南蛮手急須     
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青木木米 白泥 涼炉

                   


陶工としての第一歩


1796年、30歳で陶工を志した木米は、まず粟田焼の宝山窯で日本の焼き物の基礎を学び、奥田潁川に弟子入りします。師から中国の新しい様式を学び、自身の窯を開いて作陶に励みました。


九谷焼への貢献と晩年


1807年、木米は金沢へ招かれ、春日山窯の指導者となります。金沢城の火災で藩の財政が悪化し、春日山窯が民間の窯になると、木米は興味を失い、翌年には京都に戻ってしまいました。

わずか2年という短い滞在でしたが、木米の技術指導は廃れていた九谷に新たな命を吹き込み、その後の九谷焼の発展に大きく貢献しました。


独特な作陶の弊害

木米は窯の温度を燃える炎の「パチパチ」という音で判断していました。窯に近いためいつも耳が赤く腫上がった。

この手法のため耳が完治する間もなく作陶に打ち込んだ結果、晩年には聴力を失ってしまいます。このことから、彼は自身の号を「木米」から「聾米(ろうべい)」へと改めました。


まとめ


木米の金沢での滞在期間はわずか2年だったため、金沢で作られた本人の作品は非常に少ないのが現状です。

そのため、現在市場に出回っている作品の多くは、後世の陶工たちが木米の作風を真似て作った模造品や写しです。

しかし、その中でも急須や涼炉といった煎茶道具は、特に模造品が少ないとされています。これらの作品は、日本国内だけでなく、海外のコレクターからも高く評価され、人気を集めています。

弊社は国内外のコレクターと直接繋がっているから、骨董品を高く売るお手伝いができます。古美術・骨董品の自社オークションも運営していますので、まずは一度ご相談ください。

MRO北陸放送 取材
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