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やきもの文化の軌跡 ~江戸中期~

やきもの文化の軌跡 ~江戸中期~

幕府時代における日本のやきもの(1691年〜1786年)

年表で見る主な出来事

  • 1691年:田中五兵衛が肥前(佐賀県)の現川焼(うつつがわやき)を始める。
  • 1697年:朝永卓平が肥前の百貫山窯を開く。

  • 1698年:伊予(愛媛県)の梁瀬焼(やなせやき)始まる。

  • 1699年:尾形乾山が京都鳴滝に窯を開き、京都陶芸に新風を吹き込む。

  • 1713年:備前で白備前が焼き出される。

  • 1716年:備前の大内焼(おおうちやき)始まる。

  • 1722年:玉水焼(京都)初代一元没。

  • 1726年:対馬で志賀焼開始。

  • 1730年頃:奈良焼始まる。

  • 1733年:「西南四道大飢饉」発生。江戸の今戸焼二世、白井半七が半七楽焼を始める。

  • 1737年:尾形乾山の陶工必用(江戸伝書)成る。伊勢の万古焼(ばんこやき)始まる。

  • 1743年:尾形乾山没。京都の亀亭焼、和泉の湊焼、近江の瀬田焼、山城の深草焼が始まる。

  • 1751年:尾張の犬山焼始まる。

  • 1755年:錺屋吉兵衛が京都薬田口で岩倉焼開始。江戸では後楽園焼、阿波焼、綾焼などの御庭焼も始まる。

  • 1761年:播磨の出石焼(いずしやき)始まる。

  • 1766年:石見の永見焼(ながみやき)始まる。

  • 1771年:松本軍七が羽後の白岩焼始める。清水六兵衛が京都の六兵衛焼開始。

  • 1775年:伊予大洲藩で、有田から陶工を招き砥部焼を始める。

  • 1776年:薩摩の平佐焼(ひらさやき)始まる。

  • 1777年:伊勢万古焼の祖、沼浪五左衛門没。

  • 1779年:有田皿山の代官久米六兵衛、赤絵屋の秘伝流出防止のため家督相続相続定法を定める。

  • 1782年:清水寛造が摂津の桜井里焼(楠公焼とも)を始める。

  • 1786年:薩摩の龍門司焼の陶工川原芳工が弥勒皿山窯を開く。この年、天明の大飢饉が起こる。


多様化・地域色豊かなやきもの文化の形成期

17世紀後半から18世紀にかけて、日本の陶磁器産業は著しい多様化と発展を遂げました。戦国時代や桃山時代に確立された肥前・有田を中心とした磁器産業に加え、各地の地方窯が独自の技術や様式を発展させました。

肥前地方では現川焼や百貫山窯など新たな窯が相次いで開かれ、華麗な磁器の生産が継続されました。京都で活躍した尾形乾山は、伝統的な京焼を芸術的に高め、江戸時代のやきもの文化に影響を与えました。

また伊予の砥部焼や揖保の梁瀬焼、備前の白備前・大内焼、さらには対馬の志賀焼、奈良焼、尾張の犬山焼など、地域ごとに特徴あるやきものが誕生。御庭焼(藩や幕府のお抱え窯)や江戸の今戸焼なども含め、多彩な需要に応えた製品群が増えました。

18世紀には技術の伝承や秘伝の管理が厳密になり、品質向上に努めました。特に有田の皿山では家督相続の取り決めが行われ、赤絵屋の技術が外部に漏れないよう守られました。

社会的には天明の大飢饉や西南四道大飢饉などの危機もありましたが、やきもの産業は藩の重要な基幹産業として持続。地方経済の発展と文化形成に寄与しました。

この時期のやきものは、日用品から茶道具や贈答品まで幅広く、多様な社会層の生活に浸透し、今日の日本陶磁器の多様性を形作る重要な礎となりました。

 


 

このように1691年から1786年は、陶磁器産地の新旧交代が進み、芸術性・実用性ともに日本の陶磁器文化が幾層にも深まった重要な時期です。地域ごとの特色と技術革新、藩の保護政策のもとで、全国にわたる豊かな陶磁器文化が成熟しました。

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