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◆骨董コラム◆ 日本の陶器 志野焼・瀬戸黒・備前焼・萩焼の歴史

志野焼 

桃山時代を代表する茶陶の一つとして、黄瀬戸や織部とともに美濃地方で盛んに作られました。卵殻色の百草土と呼ばれる特有の胎土と長石釉を使った志野は、文様のない無地志野、鬼板と呼ばれる天然の酸化鉄を使って簡単な文様を描く絵志野、掻き落としを使った鼠志野、さらに赤志野などに類別されています。


瀬戸黒

志野と同じく美濃で作られ、桃山時代の天正期に焼かれたので、天正黒とも呼ばれています。その特色である深みのある漆黒の釉調は、焼成中の窯の色見穴から鋏で引き出し、水桶に突っ込んで急冷してできるもので、引き出し黒の別名もあるそうです。一度に多くの数は作れず、古来より珍重されてきました。


備前焼

現在の岡山県備前市伊部を中心に、平安末期から今日まで活動を続ける備前焼は、釉薬をかけずに長時間焼き締めるだけで、そのために素地がきわめて重要と言われています。明治以降はヒヨセと呼ばれる付近の田の底土を主に使用しています。火襷、牡丹餅など窯変による技法もあるが、きびしく焼き締められた土味が見どころです。


萩焼

文禄の役(一五九二)の際、朝鮮より帰化した陶工李勺光と、その後渡来した弟の李敬および数名の陶工らによって、毛利輝元が長門の萩に入府した慶長九年(一六〇四)以後、萩城下の松本中之倉に開窯されたのが始まりといわれています。毛利藩の保護のもとに主として茶道具が焼造されました。作風は、井戸・雨漏・熊川など朝鮮李朝系両技をよく伝え、佗び茶の趣にかない、土味・ほどよい重さ・釉調の景色など、古くから茶陶中の優品として知られてきました。山口県防府市から産出される白色粘土の「大道土」を使用することに色があるといわれています。

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MRO北陸放送 取材
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