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激動の幕末陶芸史:開港と九谷の盛況が拓いた近現代への道(1850年〜1865年)

激動の幕末陶芸史:開港と九谷の盛況が拓いた近現代への道(1850年〜1865年)


19世紀半ばの幕末(1850年〜1865年)は、日本の歴史が大きく揺れ動いた時代ですが、陶芸界もまた、京焼の巨匠たちの集大成、地方窯の自立、そして海外貿易の開始という三つの大きな潮流によって、近現代へと移行する過渡期を迎えました。この激動期に、日本のやきものは芸術性、産業性、そして国際性において大きな転換点を迎えることになります。

1. 京の巨匠たちの終焉と技術の拡散

この時代は、江戸時代後期の陶芸界を牽引した京焼の偉大な陶工たちが次々と世を去った時期にあたります。彼らの死は京の陶芸界に一つの区切りをつけましたが、その技術と名声は弟子たちや地方の陶工によって全国に拡散されました。

年代人物/窯概要と影響
1850年奥田木白永楽保全京の巨匠二人が地方で新窯を開きました。柏尾武平(奥田木白)は大和で木白焼を、永楽保全は近江で湖南焼(三井御浜焼とも)を開始。晩年の巨匠たちが地方で新たな芸術的境地を切り開こうとした試みを示しています。
1854年初代永楽善五郎没、八橋焼京焼の巨匠、初代永楽善五郎が没します(60歳)。彼の弟子である長康亭道三は、その技術を羽後の八橋焼で活かしました。
1858年仁阿弥道八京焼の色絵を極めた二代高橋道八(仁阿弥道八)が没します(73歳)。真葛長造も1860年に没し、京の陶芸界の偉大な時代が終焉を迎えます。
1863年初代清風与平没清風与平(梅亭)が没。京焼の高度な技術が、彼が指導した備前の虫明焼などの地方窯に大きな影響を与えていました。

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京の陶工たちは、筑前の野間焼紀州の直川焼(1856年)の創設にも招かれるなど、その洗練された意匠や技法を地方の窯に植え付け、各地の陶芸レベルを引き上げました。

2. 地方窯の勃興と産業化の波

藩の庇護を受けていた窯や、独自の技術を持つ地方の窯は、幕府体制の崩壊を見越すように、あるいは地方産業として自立する形で発展しました。この時代の窯の多くが、後の近代陶芸の礎となります。

年代窯名(場所)/人物概要と影響
1853年益子焼(下野)大塚啓三郎が益子焼を開始。この窯は、のちに関東における庶民的な日用陶器の一大産地へと成長します。
1855年泥鰌焼(武州)、射和万古焼(伊勢)水島忠兵衛が淡路焼を模した泥鰌焼を始め、柳川鍋を創製するなど、庶民生活に根ざした実用陶器が考案されました。
1858年九谷焼新窯開窯加賀の山代に新窯が開かれ、九谷焼が本格的な盛況期を迎えます。これは、松屋菊三郎が1856年に青九谷を完成させた技術的進展とも連動し、後に明治期の輸出陶磁器の主役の一つとなりました。
1862年山口焼(近江)彦根藩窯の湖東焼のあとを継承し、山口喜平・喜之介兄弟が山口焼を開始。藩の庇護を離れても技術が民間に継承された例です。
嘉永・安政年間地方窯のラッシュ成田焼二本松焼(東北)、玉川焼(武蔵)、松代焼(石見)、阿須焼(対馬)など、全国各地で藩窯や地方窯が相次いで誕生・活動し、地域色豊かな陶磁器文化が花開きました。

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3. 開港と異文化の到来

1859年の神奈川・長崎・箱館の開港は、日本の陶磁器にとって決定的な出来事でした。これにより、日本のやきものは本格的に海外市場に晒され、技術面でも新たな影響を受けます。

年代出来事/人物概要と影響
1857年秋の浦焼(長崎)幕府の造船技師であったオランダ人、ハーハゲネルが、日本で初めて西洋の技術を導入した窯を開きました。これは近代的な製陶技術の萌芽と言えます。
1858年箱館焼(箱館)箱館奉行所が美濃の陶工を招いて箱館焼を開始。開港地における産業振興と、染付煎茶器など貿易を意識した製品づくりが進みました。
1857年『本朝陶器放証』金森得水が陶磁史研究書を著述。激動期にあって、日本のやきものの歴史を整理しようとする学術的な動きも見られました。

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この幕末の陶芸界は、全国的な窯の勃発と技術の進化、そして海外との接触によって、**「伝統の集大成」と「近代への胎動」**が混在する、極めてダイナミックな時代でした。この時期に確立された地方窯と輸出への意識が、後の明治時代の陶磁器産業の爆発的な発展へと繋がっていくことになります。

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