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◆骨董コラム◆九谷焼の歴史 若杉窯・宮本窯とは

鮮やかな赤が目を引く!宮本窯

日常の美を求めて:若杉窯(わかすぎかま 1811年~1875年頃)

若杉窯は、文化8年(1811年)に若杉村の十村(じゅうそん)であった林八兵衛(はやしはちべえ)が開いた窯で、青木木米と共に金沢に来た本多貞吉が中心となって窯を築きました。文化13年(1816年)には郡奉行の支配下に入り、「若杉製陶所」となりますが、明治維新後、藩の保護がなくなり、明治8年(1875年)に廃窯しました。

 

若杉窯の特色は、日用品を中心に作られていることです。貫入(かんにゅう)という細かいひび割れが多く入った卵黄色の磁器の素地に、伊万里焼風の文様が、筆の勢いを生かして描かれたものや、古九谷の写しなどが見られます。庶民の生活の中で使われる、親しみやすい焼き物でした。

 

このように、古九谷の 廃窯後、それぞれの窯が異なる理念や技術によって、九谷焼の多様性を広げていったことが分かります。


鮮やかな赤が目を引く!宮本窯(1835年~1852年頃)

九谷焼の歴史の中で、特に新しい表現を生み出し後世に大きな影響を与えた窯のひとつが「宮本窯(みやもとがま)」です。その背景には、才能ある職人と新しい技法の挑戦がありました。ここでは宮本窯の魅力について、わかりやすくご紹介します。

宮本窯のはじまり

宮本窯は、もともと「吉田屋窯(よしだやがま)」として知られていた窯を、宮本屋宇右衛門(みやもとや・うえもん)が買い取り、新しく始めた窯です。吉田屋窯もたいへん有名でしたが、その後を継いだ宮本窯は独自の個性を発揮していきました。

飯田屋八郎右衛門と「八郎手」

宮本窯で特に注目されたのが、絵付け師・飯田屋八郎右衛門(いいだや・はちろうえもん)の存在です。彼の作品は緻密で格調高く、新しい九谷焼の世界を切り開きました。

  • 赤色の絵付けを細い線で丁寧に描き出すのが最大の特徴

  • 繊細で奥行きのある表現は「八郎手(はちろうで)」と呼ばれ、大変人気を博した

この「八郎手」は、九谷焼に新しい美の方向性を示したといわれています。

豪華絢爛な「赤絵金襴手」

宮本窯では、さらに一歩進んだ挑戦がなされます。それが「赤絵金襴手(あかえきんらんで)」と呼ばれる技法でした。

  • 鮮やかな赤の絵付けに、金彩を組み合わせて華やかさを強調

  • まるで金襴の織物のような豪奢さを持つ表現が魅力

後に流行となる「金襴手」の原点ともいえるスタイルであり、九谷焼の装飾表現を大きく前進させた重要な功績です。


Q&Aで分かる宮本窯

Q1. 宮本窯って、ほかの窯とどう違うの?
A. 宮本窯は「細やかな赤の表現」と「赤絵金襴手」という豪華な技法を両立させたところが大きな特徴です。これにより、繊細さと華やかさを兼ね備えた作品が多く生み出されました。

Q2. 飯田屋八郎右衛門の「八郎手」は、なぜそんなに人気があったの?
A. 当時の九谷焼では見られなかった細い赤線の表現方法が革新的で、人々の目を引きました。その緻密な描写は、強い存在感と美しさを兼ね備えていたのです。

Q3. 「赤絵金襴手」は現在の九谷焼にも残っているの?
A. はい。赤と金を組み合わせた豪華な意匠は、現在の九谷焼の人気作品にも受け継がれています。その発祥のひとつに宮本窯があると考えると、現代の九谷焼の華やかさのルーツが見えてきます。


宮本窯は、緻密で革新的な「八郎手」と、華やかさの象徴ともいえる「赤絵金襴手」を生み出し、九谷焼の発展に大きく寄与した窯でした。その作品は今も多くの人々を魅了し続けています。

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