玉手箱コラム
2025.04.16
◆骨董コラム◆幻の古陶珠洲焼とは
珠洲焼の歴史と特徴
珠洲焼は中世日本を代表する焼き物で、かつては日本海側の広い地域で使われていましたが、突然姿を消した「幻の古陶」として知られています。この記事では、珠洲焼の歴史と特徴を分かりやすく説明します。
珠洲焼の歴史
誕生と発展
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いつ誕生したか:珠洲焼は12世紀中葉(平安時代末期)に現在の石川県能登半島の先端で誕生しました
→ この頃、能登最大の荘園「若山荘」が成立し、その影響で焼き物の生産が始まったと考えられています -
最盛期:13〜14世紀に最盛期を迎えました
→ 北海道南部から福井県にかけての日本海側に広く流通し、日本列島の4分の1を商圏とするほど発展しました -
衰退と消滅:15世紀後半に急速に衰え、15世紀末(室町時代中期)に生産が途絶えました
→ 戦国時代に入ると忽然と姿を消し、その理由については今日までははっきりと解明されていません
現代での再発見と復興
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再発見:昭和24年(1949年)に中野錬次郎氏らによって窯跡の検証が始まりました
→ その後、昭和30年代以降に珠洲一円で40基ほどの窯跡が発掘され、研究が進みました -
復興:昭和53年(1978年)に珠洲市陶芸センターにおいて、珠洲焼は約400年の眠りから目覚めました
→ 「再興珠洲焼」として翌年に初窯出しが行われ、現代の陶工たちによって新たな歴史が刻まれています
珠洲焼の特徴
製法と見た目の特徴
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製法の起源:古墳時代中期に大陸から伝わった須恵器(すえき)の技法を受け継いでいます
→ 古代の焼き物技術が中世まで継承され、独自の発展を遂げた貴重な例です -
製作技法:鉄分を多く含む珠洲の土を粘土紐で巻き上げた後に形を整え、高温で焼成します
→ 粘土紐を積み上げて形作る「輪積み」という古代からの技法が使われていました -
焼成方法:窖窯(あながま)という地中に掘った窯を使い、1200度以上の高温で「燻べ焼き(くすべやき)」という技法で焼き締めます
→ 酸素が少ない環境で焼く「還元炎焼成」を行い、火を止めた後も窯を密閉して酸欠状態にします -
色と質感:釉薬(うわぐすり)を使わず、焼成時に溶けた灰が自然の釉薬となり、粘土中の鉄分が黒く発色します
→ 焼き上がった製品は青灰から灰黒色となり、独特の艶と風合いを持っています
主な製品と時代による変化
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主な製品:壺、甕(かめ)、鉢の3種類が中心でした
→ 特に鉢は「擂り鉢(すりばち)」として調理器具に使われていました -
装飾の変遷:初期は多彩な装飾文様が施されていましたが、時代が下るにつれて簡素化していきました
→ 櫛目文(くしめもん)は全期間を通して見られる代表的な装飾です -
形の変化:時代によって口縁(こうえん)の厚さや胴の膨らみなど、細部の特徴が変化しました
→ これらの特徴から、珠洲焼は時期によってI期からVII期に分類されています
珠洲焼の文化的意義
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流通範囲:日本海側では珠洲焼が、太平洋側では常滑焼が広く使われていました
→ 中世の物流ネットワークを示す重要な考古学的証拠となっています -
現代の評価:素朴で力強い美しさが人々の心を魅了し、「幻の古陶」として高い評価を受けています
→ 現代の陶芸にも影響を与え、珠洲焼の伝統を継承する取り組みが続いています -
文化財としての価値:中世の生活様式や技術水準を知る上で貴重な遺産です
→ 特に、珠洲市立珠洲焼資料館(平成元年オープン)では、珠洲焼の歴史と製作技法を学ぶことができます
珠洲焼は、12世紀から15世紀にかけて能登半島で栄えた中世日本を代表する焼き物です。古代の須恵器の技法を受け継ぎながら独自の発展を遂げ、日本海側の広い地域で使用されました。15世紀末に突然消滅した後、約400年を経て昭和時代に復興し、現在も伝統技法を継承する取り組みが続いています。その独特の灰黒色の風合いと素朴で力強い美しさは、今日の私たちにも中世の技と美を伝えています。
珠洲焼の歴史は、日本の工芸技術の伝承と変遷、そして失われた技術の復興という点で、文化的にも大きな意義を持っています。今後も、この貴重な文化遺産が継承され、新たな展開を見せていくことが期待されます。